この人に聞く

町中のみこし

宮田正士さん(水無神社宮司)

  • 昔から、祭りは、殿様が力をかしたり、官制(官主導)のものが多いが、この祭りは民が主体になっているめずらしい祭り。
  • 22日、御神体を本殿から宮司が出御し惣助、幸助に授けられ、あとは、幸助、惣助の責任によって2日間祭りがとりおこなわれる。
  • 他の祭りでは、すべて神事は宮司が行うものが多いが、水無神社の祭りは、一部の人が楽しむ祭りではなく、神様とみんなが楽しむ祭りである。そんな誠心を大切にしたい。
  • 昔の木曽の人は山仕事をしていたので力があった。神輿を担ぐことはへっちゃらだったが、今は仕事がら力を使わない人が多い。そのへんは大変だと思うがいつまでもつづけていってもらいたい。
  • 代々、水無神社の宮司をされている宮田家は、昔は、位家(屋)「いや」という苗字でした。現在の「伊谷」地区を治めていたのかもしれません。江戸時代に、位家さんは、山村代官から、水無神社の神主をおおせつかり、京都へ行き神主の勉強をして木曽へもどってきました。そこで姓を改め宮田になりました。お話しをしていただいた宮司「宮田正士」さんが19代目、息子さんが20代目になるそうです。
精進縦まくり

木村信一さん

18歳から水交会に入り、「みこしまくり」は三十余年、この間「精進(惣助、幸助)」7回、という“みこしまくりの人”である。

  • 時代の流れは早くいろいろなものが変化していく、そんななかでも形を変えず昔のまま続いている「みこしまくり」をいつまでも守っていきたい。
  • 若い人には「みこしまくり」の技を身につけ、さらに盛り上げていってくれることを願っている。
  • 最近、他のところの祭りでは、人が見ていないところは、手を抜いて神輿を車にのせて運んだりしているところもあるが、水無神社の神輿は、どんなに疲れていても必ず神輿を神社に戻すまで自分たちで担いでいく。人がみていないところでも手を抜かない、そんな心を大切にしている。危険が伴う祭りだからこそ、水交会はじめ、みんなが「絶対、けが人を出さない」という強い思いをもって祭りをしている。中途半端な気持ちでやると必ずけがをしてみんなに迷惑をかけてしまう。みこしをまくるとき、落とすとき、みんなの心がひとつにならなくてはいけない。祭りの成功を祈り、精進し自分の心を祭りにあわせ、自分を律して、心身を清くして、祭りに臨む。自分でやれるだけのことをして、あとは神にゆだねる。
  • みこしまくりは、水交会や枠持ちには、厳しい戒めがある反面、他からきた人でも、快く仲間に入れる。伝統を重んじながらも、門戸は広く開けられている。
木曽おどり提灯

小野常助さん

木曽踊師範

  • 昭和32年から57年まで「だんじり」に乗っていました。しかし大人が乗ってもあまり見てもらえないため、昭和53年から子供を乗せるようになりました。小学校の校長先生に子供を「だんじり」に乗せることをお願いし、子供が乗るようになりました。子供や孫が乗るようになってからは、たくさんの人が見にきてくれるようになりました。今は、小学生から高校生までが乗っています。
  • 囃子のできる生徒は55人ほどいますが、実際に「だんじり」に乗るのは15人なので交代で乗ります。祭りの前は、みんなで集まり練習します。
  • 戦前は「だんじり」にかかるお金はすべて上町だけでまかなわれていましたが、戦後、町の中心が西へ移ってくると上町だけでの管理が難しくなりました。「だんじり」の管理は、木曽福島町へお願いしましたが、最終的に水無神社へ奉納され、水無神社の「だんじり」になりました。
  • 昔は、道路の事情もあり神輿と同じ行程を「だんじり」がまわることができなかったため、「だんじり」は、今より留まっていることが多かったようです。八沢から駅への坂は、神輿だけが行き、「だんじり」はその周辺のところに留まり長唄が唄われていました。旅館などからご祝儀をいただくと、停まって長唄を唄いました。
  • 上町にいた秀子さん、龍子さん、清香さんという芸者さんが、三味線を弾きながら「だんじり」に乗り長唄を唄っていました。当時、芸者さんから長唄を教えていただいたこともありました。秀子さんの練習はとくに厳しく、扇子でたたかれる人もいました。秀子さんは昭和30年頃まで、龍子さん、清香さんは昭和50年頃まで唄っていたようです。しかし、唄を唄える人が減ってきたことと、道がよくなり「だんじり」も神輿と同じような行程をたどるようになったため、ゆっくりと唄うことができなくなり、昭和50年過ぎには唄われなくなってしまいました。とても残念です。

資料提供:水交会